水中文化遺産、特に常時水面下にある「水中遺跡」の調査は、今でこそ研究者も実際に潜り、作業に参加できることで、陸上と同じ方法・精度で行なわれるようになりましたが、それはスクーバ装備が発明されて、調査にその装備が使われるようになった1950年代以降のことです。これ以降、沈没船が多く確認されていた地中海を主な実践の場として、水中文化遺産研究(水中考古学)は考古学の一分野として認知されるようになります。ただし、考古学が学問として登場したのが18世紀代ですので、考古学の分野としては新しいものであることはおわかりいただけることと思います。
スクーバ装備発明以前でも「水中」からの引揚げ遺物の研究はされていましたが、前回も触れたように、考古学研究では必要不可欠なモノの位置やその状態を研究者が確認することができなかったこともあり、そこから得られる情報は考古学的には十分なものではなく、相当な評価を受けることもありませんでした。わずか数m、数十cmの水深に沈んでいるものに対しても、「水中」という環境が研究者には大きく立ちはだかっていたのです。
日本においてもすでに江戸時代から好事家(こうずか)たちにより、海底から引揚げられた焼き物などが記録されていることから、興味の対象となっていたことがわかります。しかし、本格的な研究となると明治時代の訪れを待たなくてはなりませんでした。
明治時代になり西洋文化との接触が盛んになると、学問としての考古学が伝えられます。そして、日本で初めての考古学的手法による調査が1877(明治10)年に大森貝塚(おおもりかいづか/東京都品川区・大田区/縄文時代後期)で行なわれました。貝塚は、海中(水中)の生物資源である貝や魚を食べた後の残りかす(貝殻や骨など)を捨てた海辺(湖岸)に営まれたゴミ捨て場の遺跡ですので、広い意味では水中文化遺産と言っても良いかもしれません。
その明治時代には早くも水中文化遺産が注目されています。それは、今から約100年前の1908(明治41)年に、長野県諏訪市の諏訪湖湖底数mから漁により、多量の旧石器時代~縄文時代の石器や土器が引揚げられたことが学会で発表された「諏訪湖湖底曽根遺跡(すわここていそねいせき)」です。遺跡がなぜ湖底にあるのかをめぐる論争が展開され、水中文化遺産に研究者の目を向けさせるきっかけになった記念すべき遺跡です。なお、この論争は、今もまだ決着をみていません。
その後も各地で水中文化遺産が確認され、研究対象となりましたが、やはり水中という環境にはばまれて、十分な研究ができず、相当な評価を受けることもありませんでした。
諏訪湖湖底曽根遺跡が存在する諏訪湖湖畔
(旧石器~縄文時代/長野県諏訪市)
林原利明撮影
日本での本格的な水中文化遺産(水中遺跡)の調査は、1974(昭和49)年から5カ年にわたり北海道江差町沖で1868(明治元)年に座礁・沈没した旧江戸幕府軍の軍艦・開陽丸(かいようまる)を対象として行なわれました。この調査は、日本はもとよりアジアでも初めての考古学的手法をもちいて行なわれた沈没船調査でもありました。調査では、考古学研究者も実際に潜水し、調査方法や引揚げ遺物の保存処理方法の検討がなされるなど、その成果はその後の水中での調査の規範となりました。1980年代には長崎県松浦市鷹島沖で鎌倉時代の元寇(げんこう。蒙古襲来)の舞台となった「鷹島海底遺跡(たかしまかいていいせき)」の調査が継続的に行なわれ、元寇を考古学的に解明する多くの情報が海底から得られています。鷹島海底遺跡は、2012(平成24)年にその一部が「鷹島神崎遺跡(たかしまこうざきいせき)」として、国内の水中(海底)遺跡では初めて国史跡に指定されました。
復元された開陽丸
(開丸青少年センター/近代/北海道江差町)
林原利明撮影
国史跡・鷹島神崎遺跡
(中世/長崎県松浦市)
林原利明撮影
このふたつの調査をきっかけに、水中文化遺産、特に「水中遺跡」が注目されるようになり、水の子岩海底遺跡(みずのこいわかいていいせき/中世/香川県内海町)、推定いろは丸(近世/広島県福山市)、神津島海底遺跡(こうづしまかいていいせき/近世/東京都神津島村)、倉木崎海底遺跡(くらきざきかいていいせき/中世/鹿児島県宇検村)、房総沖沈没船(ぼうそうおきちんぼつせん/近代/千葉県勝浦市)、小値賀島前方湾海底遺跡(おぢかじままえがたわんかいていいせき/中世/長崎県小値賀町)、伝ニール号沈没地点(近代/静岡県南伊豆町)などの沈没船遺跡、上ノ国漁港遺跡(かみのくにぎょこういせき/近世/北海道上ノ国町)、シタダル遺跡(近世/沖縄県石垣市)などの海底の遺物散布地や琵琶湖の湖底に存在する水没遺跡(旧石器時代~近世/滋賀県)など、各地で調査・研究が行なわれるようになります。
しかし、その数は陸上の遺跡と比べるとはるかに少ない数です。このことは単純に「水中遺跡」の存在数が少ない、ということを示しているのではありません。まだ知られていない遺跡も多く存在するはずです。少ないという事実は、「水中遺跡」を含む水中文化遺産の扱われ方を反映しているだけなのです。
伝ニール号沈没地点を見下ろす高台に建つ海蔵寺境内のニール号遭難者慰霊塔
(近代/静岡県南伊豆町)
林原利明撮影